森の会と田野畑村の関係

 

早稲田と田野畑村の関係は、今から遡ること半世紀以上前に始まりました。

1960年12月、早稲田大学商学部助教授の小田泰市先生はゼミ生13人を連れて、農村体験のために初めて岩手県田野畑村を訪れました。ゼミ生の中に田野畑村出身の学生がいたことがきっかけでした。

しかし1961年5月、大規模な山火事が田野畑村を襲いました。のちに三陸フェーン火災と呼ばれることになるこの山火事は、田野畑村の多くの山々を焼き払い、豊かな自然は荒廃してしまいました。

翌年から植林事業が進められたのですが、小田先生は田野畑村の復興、そして自然教育の機会として、学生をこの植林事業に参加させました。

 

さて、この時期早稲田大学では大きな事件が勃発していました。第一次早大紛争です。5か月にも及ぶ学生紛争の中で、小田先生は学生の中に人間教育の欠如を読み取り、これが紛争の原因ではないかと考えました。

「厳しい環境の中で生きてきた田野畑の村人と触れ合い、右も左も学生も教師も関係なく、同じ星の下で同じ釜の飯をつついて人生を語り合うことにこそ教育の原点がある」

と考えた小田先生は、田野畑村に自然教育の場を作ることを決意し、思惟の森構想という理想を掲げました。

1965年、田野畑村に若い若い村長が誕生しました。早野仙平氏、36歳でした。氏は、地域の発達には教育が一番重要であると考え、「教育立村構想」を立ち上げました。その翌年、66年の夏、早野村長と小田先生は初めて出会いました。ここで、小田先生の「思惟の森構想」と早野村長の「教育立村構想」が一致。村側が土地や寮建設の木材などを提供し、ここに思惟の森の会が誕生しました。

それから半世紀以上経った今も、思惟の森の会は田野畑村で活動し続けているのです。


参考文献…『森の合言葉』小田泰市著  『田野畑村の実験』伊達勝身著

 

 

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